大学を卒業して最初に配属になったのは、国内営業部の城南営業所/多摩営業所でした その後、本社の国際本部勤務に異動して、製品事業部を経験し、UK駐在となり米国駐在となりました
転職した後も合算すると通算の海外駐在期間は24年もあり、私のキャリアとしては、海外畑とか海外マーケティングとか海外現法経営とかがタイトルとして付されることが多いですが、やはり、ホームグラウンドはここだなあと思います
当時の数字の作り方
皆さんと話していて、当時の数字の作り方は、個々が苦労されてやっていたことを思い出しました 数字を上げるために空売りして一旦売上目標を達成する
しかし、お店からの注文を受けたわけではないので、売上を上げた後、お店に連絡して、とりあえず配送された製品を受け取ってもらうように交渉する
こういうことにある程度寛容であるお店は、経験からわかります そして、受け取ってもらった商品は翌月の返品処理にするか、自分で知り合いに売って、お店にも利益を渡して勘弁してもらうかしてました
利益は自分にも残るから、それを貯めて、このような個人売買を行う営業倉庫代を賄ったり、お店との領収書の取れない交際費に使ったりしていました これは、当時の経営部長も黙認していたような仕組みであったと話し合いました
こんなことがまかり通っていた昭和の時代 やらない奴が異端児でいかに上手くやるかが営業社員の甲斐性でした
ただ、上手くやれない先輩もおられ、自分でローンを組んで買い取ったはいいが、親戚にも売り尽くして売る相手がいなくて、営業倉庫や寮の自室に製品がうず高く積み上げられていたことを思い出します
また、監査が入ると一網打尽でした 多くの先輩がクビになり辞めていかれました
それでも生き残った人たち
当時のことを思い出すと、本当に大変だったと思います しかし、いつもいつもお店がOKをしてくれるわけではありませんので、皆が自分の流儀を編み出して行ったのであろうと思います
私の場合は、空売りはほとんどしませんでした しませんでしたが、お店からの注文は、少しアレンジしていたところはあります つまり、締日近いタイミングでの注文は、少しだけ待ってもらい、あたかも締日に自分が受注したように装ったりしました
また、自分の知り合いへの売り上げも、できるだけ締日に近い日に売り上げて、「申告した月末数字」を達成するようにしていました
こんなことをして何になるのだろう?と自問したりしていましたが、そうしないと数字が守れないし、守れないと人格まで否定されるような怒号が飛び交う状況でしたから、やむを得ずやるしかありませんでした
しかし、お店に行かないで幹線道路沿いの外食チェーンで営業マンがお茶しながら油を売り、こんなことばかりしていたのは、やはり生産性が低い仕事であり、長くは続きませんでした
社員旅行、野球大会
そんな滅茶苦茶な仕事クオリティでしたが、不思議と社員の仲が良くて、社員旅行や野球大会は積極的に参加していました

この当時の写真を見ると、懐かしいというか、恥ずかしいというか 若かったのだなあと思います
帰り道
OB会を終えて、酔った足で日本橋まで歩くと、とても現代的な景色があります

城南営業所で5年勤務したあとは、日本橋の本社勤務に異動しました あんなに締め日で苦労していたのに、本社勤務になったら全くそれがなくなりほっとしたというか、気が抜けました
ただ、机の上の電話が鳴るのが怖くて、ビクビクしてました 異動先であった当時の貿易本部は海外からの電話が多くて、英語を喋れない自分は本当に苦労したのでした
あとがき
国内営業当時の仲間と会うと、本当に楽しい時間を過ごします 大学を卒業したばかりだったというのもあると思いますが、社会人としての躾を受けた時期であり、ビジネスの基本を叩き込まれて苦しい時でもありました
そんな20代の経験を経て、海外畑に移りましたが、やはり、基本はここだなあと思いながらいつも会います 会って、近況を話すのが本当に楽しい仲間です!

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